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【EUとの類比性】

【EUとの類比性】
1年近くにわたり三十年戦争に興味を持ち座学してきた。 興味を持った理由は、①中欧のプラハやブダベストに行ったことがきっかけではあるのだが、②スウェーデングスタフ・アドルフという名前にカッコよさを感じたことにもある。そして、③誰でも平和を希求しているのになぜ戦争が起こるのか、如何にすれば平和が得られるのかを考えたこともきっかけである。
西ヨーロッパ世界は、古代ローマ帝国、東西ローマ帝国への分離の後、ゲルマン人の大移動により西ローマ帝国が滅びた。西ローマ帝国を継いだのが、ゲルマン人フランク王国である。フランクはゲルマン部族の中でもいちはやくキリスト教に改宗し、ローマ教会はゲルマン人の改宗を進めキリスト教世界を拡大した。フランクのカール大帝は武力で西ヨーロッパの主要部分を統一し、ローマ教皇により帝冠を与えられた。カール大帝の死後、紛争により、東西フランクとイタリアなどに分裂した。東フランクのオットー1世は962年ローマ教皇からローマ皇帝の帝冠を受け、のちの『神聖ローマ帝國』の起源となった。『神聖ローマ帝國』は今のドイツを中心とした地域ではあるが、西フランクのフランスや中部フランクのイタリアなども『神聖ローマ帝國』の範囲に含まれると考え、各国の王様たちにとっては西ヨーロッパ全体を支配したいという誘惑が常に生じていたと思われる。
この古代ローマ帝国から神聖ローマ帝國へと連なる大きな流れが、その後のナポレオン、ヒトラーのヨーロッパ統一のための戦争、そして現在のヨーロッパ連合につながっているのではと考えられる。

 
 
 

【戦いの3つのベクトル】

 
1月18日 ·
 

【戦いの3つのベクトル】
「世界の歴史17巻ヨーロッパ近世の開花(p196~203)」によれば、三十年戦争には3つのベクトルがあるという。一つは、オーストリアからバルト海への南北に縦断するベクトル。北へ伸張を図るハプスブルグ家とバルト海周辺諸国の対立。デンマークスウェーデンの参戦がこのベクトルを代表する。第二のベクトルは西ヨーロッパ中央部を東西に横断するラインファルツからフランス国境、ネーデルラントに至るベクトル。16世紀以来のオランダとスペイン、フランスとオーストリアの対立がライン地方を戦場にした。この2つのベクトルの陰にあったのが第3のベクトルで、北イタリアのロンバルディアからアルザスを経てフランドルに至る「スパイン街道」に沿ったベクトル。神聖ローマ帝国とフランスの境界線上にあり、この線はスペインにとってもネーデルラント支配の軍事回廊であり、『大スペイン帝国』の生命線。また北イタリアはフランスも深い利害を持っており、北イタリアの小国「マントヴァ公国」の皇位継承をめぐってフランスとスペインの対決が西ヨーロッパの覇権をかけて新しい戦線を作った。三十年戦争が終わってからさらに11年続き、1659年のピレネー条約でようやく終結することになった。この結果、ヨーロッパの覇権はスペインからフランスに移った。三十年戦争宗教戦争から始まったが、途中からは列強の覇権争いと理解するのが妥当だろう。

【ウェストファリア条約】

1月9日 

 

 

 

ウェストファリア条約の内容は以下の4つにまとめられる。(1)戦勝国フランスとスウェーデン神聖ローマ帝国の領内に領土を獲得。(2)オランダ、スイスの神聖ローマ帝国からの独立を承認。(3)アウグスブルグの宗教和議の再確認とカルヴァン派への拡大。(4)帝国内の諸侯の主権が外交権など大幅に拡大、一方皇帝は戦争や同目、法律の制定に議会の承認が必要。これにより神聖ローマ帝国が死に体となり「神聖ローマ帝国の死亡診断書」といわれる所以。この結果、ヨーロッパは各国家間のパワーバランスにより秩序を維持することになった。

 

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【フランス・スウェーデン戦争(第4段階)】

【フランス・スウェーデン戦争(第4段階)】
グスタフ二世・アドルフの戦死により新教側は動揺し、分裂が進んだ。旧教側は士気が高まり、これに自信を持った皇帝はヴァレンシュタインを暗殺した。劣勢となったスウェーデンの宰相オクセンシュルナは、これまで黒子役だったカトリックのフランスを直接介入させることに成功した。カトリックのフランスは本来なら旧教側につくはずだが、ハプスブルグ家のスペイン・ドイツと国境を接していたこともあり、反ハプスブルグの意識が強かった。
このフランス・スウェーデン戦争は泥沼化し、1635年から1648年まで続いた。フランス軍は主にスペイン軍とスウェーデン軍は皇帝軍と戦った。こうした情勢の中、フェルディナンド二世がなくなり、ローマ王フェルディナンド三世が新皇帝に即位した。
1640年頃から皇帝は和平に向けた動きを画策するが、交渉を有利に進めるためにまた戦うなどずるずると戦いは長引いた。
最終的には1644年に交渉が開始され、1648年に「ウェストファリア条約」が締結され、長きにわたった戦争も終結した。
写真は中央公論社の「世界の歴史17(ヨーロッパ近世の開花)」から撮影したもの。

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【スウェーデン戦争(第三段階)】

スウェーデン戦争(第三段階)】
三十年戦争の第三段階、スウェーデンの参戦である。
スウェーデンバルト海制海権をめぐってロシア・ポーランドデンマークと争っていたが、グスタフ二世・アドルフ(写真1)が王位についてオランダに倣った軍政改革を推し進め、北ドイツ新教側の強国になっていた。一方、デンマーク戦争に勝って権威を高めていた皇帝フェルディナント二世は1629年の復旧令発令で諸侯の反発を買い、皇帝軍の傭兵隊長ヴァレンシュタイン(写真2)を罷免させられていた。
グスタフ二世・アドルフ率いるスウェーデン軍は1630年フランスの資金援助を受けドイツに侵入し、ライプツィヒ北方の「ブライテンフェルトの戦い(写真3)」で圧倒的に勝利した。その後、バイエルンへ南下し、「レヒ川の戦い」でも圧勝した。この戦いで皇帝側はティリー伯が戦死するなど多大な損害を被った。ティリー伯という有能な指揮官を失った皇帝は罷免したヴァレンシュタインを再度指揮官に召喚し、ライプツィヒ校外のリュツェン(写真4)に出撃させた。会戦当初から皇帝側が不利であったが、グスタフ二世・アドルフが戦死(写真5)するというアクシデントが起こった。結局、皇帝軍はこの戦いに敗れた。国王の戦死により、クリスチーナ女王が即位した。幼い女王の宰相オクセンシュルナは「ハイルブロン同盟」を締結し、「防衛戦争」という形で戦争を続行させた。

 

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【デンマーク戦争】

 

デンマーク戦争】
三十年戦争の第二部、デンマーククリスティアン4世の参戦を記述するのに丸1年ご無沙汰してしまった。そもそも三十年戦争は新教と旧教徒の対立から始まっているが、神聖ローマ皇帝であるハプスブルグ家とドイツの領邦君主との対立、隣国フランス、デンマークスウェーデンとの覇権争いが絡んでいる。
クリスティアン4世は北ドイツに野心があり、新教徒擁護を掲げて単独でドイツに介入した。イギリスはマンスフェルトブラウンシュバイクの両軍に資金援助した。旧教徒側は、ティリーの指揮する皇帝軍であった。1625年は異常気象で農作物が壊滅的打撃を受け、両陣営とも糧秣に事欠き、兵は仕方なく略奪を繰り返すのみで戦闘どころではなかった。膠着状態の中、最後は史上最大の傭兵隊長であるヴァレンシュタインの登場によりクリスティアン4世軍は撃退された。
参考;「戦うハプスブルグ家;菊池良生著」、「元老院議員私設資料展示館(世界史のサイト)」、「全世界史(近世・近現代編);出口治明著」

 

 

 

 

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【プファルツ戦争(第一段階の最終戦)】

【プファルツ戦争(第一段階の最終戦)】
プファルツ選帝候フリードリッヒ5世は有力なプロテスタントであり、ボヘミア王に選定されたが、白山の戦いに敗れ「ひと冬のボヘミア王」とよばれた。お隣のザクセン選帝候もプロテスタントであったが、ルター派と言うことでカルバン派のフリードリッヒの勢力があまり大きくなることに警戒してカソリック側に付いた。
当時のオランダはスペイン領であり、スペイン・ハプスブルグ家はオーストリア・ハプスブルグ家を支援すべく、オランダへの通り道でもあるプファルツに侵攻し占領していた。
フリードリッヒは領地を取り戻すべく、傭兵隊長マンスフェルト、バーデン辺境伯ブラウンシュバイク公の3軍を組織し、バイエルン公軍・スペイン軍と1622年4月から戦いはじめ、いくつかの戦いを経て最終的には1623年8月6日の「シュタットローンの戦い」にて破れた。「ボヘミア(・プファルツ)戦争」はここに終結することになる。