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【参考図】

【参考図】
30年戦争は宗教戦争といわれるが、神聖ローマ帝国内の諸侯間の対立状況も絡み合い、第4段階のフランスが参戦するころには完全に列国(フランス、イギリス、オランダ、デンマークスウェーデン)間の国際戦争となった。
より理解を深めるために、ヨーロッパのドイツ有力諸侯の位置図(写真上)及び宗教分布図(写真下左)、30年戦争後のヨーロッパの地政学図(写真下右)を示す。写真は数研出版のチャート式新世界史と、「図説 神聖ローマ帝国」(菊池良生)から撮った。

 

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【ボヘミア戦争(続き)】

 

ボヘミア戦争(続き)】
<白山の戦い>
プラハ城窓外放擲事件後、ボヘミアプロテスタント諸候たちは団結し、プファルツ選帝侯(ドイツ中西部のハイデルベルグ周辺)フリードリヒ5世をボヘミア王に擁立し、ハプスブルク家のフェルディナント2世に対抗した。ボヘミア反乱軍は、新教諸侯(ボヘミア、ドイツ、オーストリア)に援軍を求めた。ハプスブルグの仇敵であるサヴォイ侯国(北イタリアと東フランスとスイスにまたがる地域)は稀代の傭兵隊長マンスフェルトに2万の兵をつけボヘミアに派遣した。対するボヘミア反乱鎮圧軍は、カトリック連盟盟主のバイエルン侯国(ミュンヘン周辺)の名将ティリー伯を総司令官として、傭兵軍2万7千人を派遣した。
1620年11月8日、ボヘミア反乱軍と鎮圧軍はボヘミアの首都プラハの近郊の山、白山で激突した。白山の戦いは大規模戦闘というよりも、小規模戦闘であり、わずか1時間続いたにすぎず、4000人の死者を出した反乱軍の敗北となった。鎮圧(皇帝・旧教連盟)軍の死者は数百人であった。
<戦後処理>
戦争そのものは戦略的に取り立ててみるべきものはなかったが、フェルディナント2世の戦後処理が問題となった。反乱の指導者である27名のボヘミア貴族を直ちに処刑し、ボヘミアの658家の貴族と50の都市の領地が没収され、苛烈極まる再カトリック化で約15万人が亡命を余儀なくされた。
写真は「Wikipedia」から引用。

チェコについては若いころは共産圏の国だったので、「プラハの春」「チャスラフスカ」しか知らなかったところ、昨年9月に中欧に行った当時、ガイドに宗教改革の先駆者「ヤン・フス」や「プラハ城」「カレル橋」「バーツラフ広場」を案内してもらったが、ボヘミアは中世の繁栄した地域であったことなど、今やっとその歴史性がわかった。

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【ボヘミア戦争】

 

ボヘミア戦争】
<背景>
1517年、ルターによる宗教改革運動が始まり、教会やローマ教皇と対立するようになった。ルターの教説は教皇神聖ローマ皇帝と利害が対立するドイツ諸侯、自由を求める都市の市民や農民たちの支持を得た。皇帝はルター派と妥協したり、弾圧したりと紛争が続いていたが、1555年のアウグスブルグの宗教和議で、諸候内は諸候が自由に宗教を選べるようになった。ルターと同じころスイスや南ドイツでカルバンの主張が多くの人々に受け入れられていた。しかし、宗教和議ではカルバン派はまだ認められていない。このルター派やカルバン派(プロテスタント)による宗教改革運動の進展に伴って、教会もその地盤を失うことになり、内部でもイエズス会カソリック)による改革運動(反宗教改革)がおこった。17世紀はじめはカルバン派とルター派による新教同士の争い、新教側とカソリック側(旧教)との争いが続いていた。その結果、カトリックプロテスタント両派の諸侯がそれぞれ旧教連盟・新教同盟を結成して対立していた。
<戦争前夜>
新教と旧教の争いの険悪化の中、1612年ハプスブルグ家のマティアスが皇帝位(*1)につき、従弟のフェルディナントをボヘミア王にした。ボヘミアスラブ民族チェコ人の王国で、神聖ローマ帝国選帝侯位を持っている。神聖ローマ帝国の皇帝位は3人の司教と4人の選帝侯位による7人の選挙で選ばれることになっていた。当時のドイツは300余りの諸候がおり、4人の選帝侯は中でも有力な諸候であった。
(注1)15世紀中期以降は皇帝に選出されるのはほぼハプスブルグ家のみとなっていたが、フランス王国のような強い結びつきはなく、各諸侯は独立国のような存在であった。
プラハ城窓外放擲事件>
ボヘミアは新教が優勢なところ、新国王フェルディナントは先々代の新教に寛容な国王から一転して新教を弾圧したことから、1618年新教諸侯がプラハ城に押し掛け、3人の国王執行官を城外(窓外)に放擲した。この窓外放擲はボヘミアでは反乱を意味する伝統的政治行動で、放擲により3人は助からないはずであったが、3人ともうずたかく積まれた堆肥のうえに落ち無傷であった。
こうして始まった反乱に対し、皇帝マティアスは妥協の道を探ったが、「がちがちのカソリック」であるフェルディナントは鎮圧軍をボヘミアに送った。
<引用文献>
1.菊池良生;「戦うハプスブルグ家」、講談社現代新書、1995
2.数研出版;「チャート式新世界史(古代・中世編)」
3.Wikipedia;「三十年戦争」ほか
4.『元老院私設資料展示館』(http://www.kaho.biz/index.html

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【三十年戦争の概要】

三十年戦争の概要】
843年のヴェルダン条約により3分割されたフランク王国時代から一気に約770年ほど飛ぶが、最大の宗教戦争といわれる三十年戦争を整理してみたい。
三十年戦争は4つの戦争から成り立っている。基本的にはカソリックプロテスタントの争いではあるが、カトリックを守護するハプスブルグ家とカトリックでありながらハプスブルグ家の勢力が大きくなるのをよしとしないフランス(ブルボン家)の勢力争いが絡んでいる。
<4つの戦争>
ボヘミア戦争(1618-1623)
デンマーク戦争(1625-1629)
スウェーデン戦争(1630-1635)
④⑤フランス戦争(1635-1648)
戦争は1648年のウェストファリア条約で終わったが、都市や領邦に国家主権が認められたため、神聖ローマ帝国の実質は失われた。また戦争による国土の荒廃でドイツ社会の停滞は著しくなった。写真はWikipediaから引用。

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【中世西欧の始まり】

~頭の体操(整理)~
今年の年賀状に「歴史・経済・環境など頭の体操をしながら健康寿命の増進に努めております」と書いたが、「ハプスブルグ家の歴史」の整理ができず、今日まで来てしまった。今年に入り、「アベノミクスとは何か」「マイソーラー発電所建設」などほかのことに気を取られ、やっと中欧の歴史に戻ることができた。とりあえず高校レベルの教科書を中学レベルにまとめたもので、少しずつ進めたい。
まずは「ハプスブルグ家が神聖ローマ皇帝に選出される前の中世西欧の始まりの部分」である。
【中世西欧の始まり】
ヨーロッパの歴史は古典古代、中世、近代とすすむ。
古典古代にはローマ帝国が存在し、4世紀後半、ゲルマン人の侵入により混乱、東・西ローマ帝国に分裂する。西ローマ帝国はゲルマンの傭兵隊長オドアケルにより476年滅ばされた。その後、ゲルマンの諸王国が建国されたが大半は滅び、フランク王国が着実に発展した。
フランク王国はいち早く正当派キリスト教に改宗し、ローマ教会と協力してキリスト教世界を拡大した。フランクのカール大帝は武力で西欧の主要部を統一し、東ローマ帝国ビザンツ帝国)に対抗した。そこで教皇は800年カールに帝冠(写真左)を与え、西ローマ帝国の復興となった。しかし彼の没後紛争が起こり、帝国は3分割(写真右)、東フランクはドイツ、西フランクはフランス、中部フランクはイタリアなどの諸国家となり、主権国家の原点が成立した。
<写真:「Wikipedia」から引用>

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【ハプスブルグ家の歴史】

(1)


ウィーンでは、ハプスブルグ家ゆかりの地と言うことで、オプション観光で新旧の王宮やシェーンブルン宮殿をガイドして貰った。何百年にもわたる王家の歴史の中で、女帝マリア・テレジア、ヨーゼフ1世がいつどこで何をしたと聞いても殆ど理解できなかった。山川の世界史をひもといて、中世のヨーロッパの歴史が神聖ローマ帝国と言う存在に大きく影響を受けてきたこと、帝国におけるハプスブルグ家の存在などにさらに興味が湧き、講談社現代新書「ハプスブルグ家(江村洋)」「戦うハプスブルグ家(菊地良生)」を読んでみた.

 

 

(2)
ハプスブルグ家の歴史を読んでも、同じ皇帝の名が何人か出てきて、頭がごちゃごちゃになる。自分の頭の整理をこの場を借りてしてみたい。
とりあえずハプスブルグ家の源流はオーストリアではなく、スイスである。ライン川の上流、バーゼル近辺の田舎大名であった。「鷹の城(ハビヒツブルグ)」が訛って「ハプスブルグ」となった(Wikipedia)が、1273年にハプスブルク伯のルドルフがドイツ王(皇帝に戴冠していない神聖ローマ帝国の君主)に選出されて世に出た。以降、最後のオーストリア皇帝カール1世が退位する1918年まで続く(日本の天皇に次ぐ)名門家の歴史である。写真は「双頭の鷲」でハプスブルグ家(オーストリア帝国)の紋章であるが、「双頭の鷲」は神聖ローマ帝国東ローマ帝国、東欧諸国の国旗などにも使われている。

 

 

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2014年10月15日 ·   【ハプスブルグ家による欧州支配】

 

ハプスブルグ家は中世の13世紀から20世紀初頭までの約700年間にわたる欧州の政治と文化に大きく関与してきた。その影響範囲は中欧のオーストリアばかりでなく、スペイン、ポルトガルポーランド、ドイツ、イタリア、バルカン半島までとヨーロッパ全域に及んでいる。日本で言えば江戸時代の幕藩体制のようなものか、はたまた今のEUのようなものか。約700年に及ぶ支配の中で、異なる民族に多言語の違いをどのように克服したのか、結婚政策、フランスとの対決、オスマントルコの侵入、プロテスタント問題、・・・、サラエボの悲劇、ハプスブルグ王朝の終焉と続く歴史は興味が尽きない。