【ボヘミア戦争】

 

ボヘミア戦争】
<背景>
1517年、ルターによる宗教改革運動が始まり、教会やローマ教皇と対立するようになった。ルターの教説は教皇神聖ローマ皇帝と利害が対立するドイツ諸侯、自由を求める都市の市民や農民たちの支持を得た。皇帝はルター派と妥協したり、弾圧したりと紛争が続いていたが、1555年のアウグスブルグの宗教和議で、諸候内は諸候が自由に宗教を選べるようになった。ルターと同じころスイスや南ドイツでカルバンの主張が多くの人々に受け入れられていた。しかし、宗教和議ではカルバン派はまだ認められていない。このルター派やカルバン派(プロテスタント)による宗教改革運動の進展に伴って、教会もその地盤を失うことになり、内部でもイエズス会カソリック)による改革運動(反宗教改革)がおこった。17世紀はじめはカルバン派とルター派による新教同士の争い、新教側とカソリック側(旧教)との争いが続いていた。その結果、カトリックプロテスタント両派の諸侯がそれぞれ旧教連盟・新教同盟を結成して対立していた。
<戦争前夜>
新教と旧教の争いの険悪化の中、1612年ハプスブルグ家のマティアスが皇帝位(*1)につき、従弟のフェルディナントをボヘミア王にした。ボヘミアスラブ民族チェコ人の王国で、神聖ローマ帝国選帝侯位を持っている。神聖ローマ帝国の皇帝位は3人の司教と4人の選帝侯位による7人の選挙で選ばれることになっていた。当時のドイツは300余りの諸候がおり、4人の選帝侯は中でも有力な諸候であった。
(注1)15世紀中期以降は皇帝に選出されるのはほぼハプスブルグ家のみとなっていたが、フランス王国のような強い結びつきはなく、各諸侯は独立国のような存在であった。
プラハ城窓外放擲事件>
ボヘミアは新教が優勢なところ、新国王フェルディナントは先々代の新教に寛容な国王から一転して新教を弾圧したことから、1618年新教諸侯がプラハ城に押し掛け、3人の国王執行官を城外(窓外)に放擲した。この窓外放擲はボヘミアでは反乱を意味する伝統的政治行動で、放擲により3人は助からないはずであったが、3人ともうずたかく積まれた堆肥のうえに落ち無傷であった。
こうして始まった反乱に対し、皇帝マティアスは妥協の道を探ったが、「がちがちのカソリック」であるフェルディナントは鎮圧軍をボヘミアに送った。
<引用文献>
1.菊池良生;「戦うハプスブルグ家」、講談社現代新書、1995
2.数研出版;「チャート式新世界史(古代・中世編)」
3.Wikipedia;「三十年戦争」ほか
4.『元老院私設資料展示館』(http://www.kaho.biz/index.html

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